本学における解剖の歴史は、明治15年(1882)9月17日、芝公園五号地天神谷所在の海軍医務局学舎内解剖所において、24才の男子の病死者を高木兼寛執刀のもとに剖検したことにはじまる。同年12月には初めて生徒に死体を与えて解剖実習を行なった。
明治24年(1891)2月、成医学校が芝区愛宕町2丁目14番地(現在の港区西新橋)に移転し、独立した解剖学教室が設立された。同年9月、成医学校は東京慈恵医院医学校と改称された。
明治27年(1894)5月、新井春次郎が専任の解剖学教授に就任した。
明治36年(1903)6月、東京慈恵医院医学専門学校が認可された。それに先立ち4月に森田斉次が教授に就任し、解剖学の一部と、正規に組織学の講義・実習を担当した。
明治38年(1905)10月28日、浄土宗大本山三縁山増上寺大殿で、本邦医育機関初の解剖慰霊祭が行われた。現在も毎年10月28日午後1時より増上寺大殿にて解剖諸霊位供養法会が挙行されている。
明治41年(1908)7月25日、第16回日本解剖学会が東京慈恵会医院医学専門学校にて開催された。会頭は日本解剖学会を創設した東京帝国大学医学部小金井良精教授であった。
明治42年(1909)5月、胎生学が正科に加えられ、森田斉次教授がこれを担当した。
大正10年(1921)10月、東京慈恵会医科大学の設立が認可された。これを機に、組織学教室が解剖学教室から分離した。解剖学教室主任は新井春次郎教授で担当科目は解剖学、局所解剖学、実際解剖学、また組織学教室主任は森田斉次教授で、担当科目は組織学、組織学実習、胎生学であった。組織学教室の名称は、本邦医科大学のなかで本学が先鞭をつけたものであった。
昭和5年(1930)12月、解剖学教室の新井春次郎教授が退職し、翌年2月林礼教授が昇任した。
昭和8年(1933)6月、解剖学教室に中村為男教授が昇任した。
昭和8年(1933)、大学本館が完成し、解剖学教室と組織学教室は後棟東側地下1階から3階までに配置され、現在に至る。
昭和11年(1936)4月、第44回日本解剖学会が森田斉次会頭の下、東京慈恵会医科大学にて開催された。
昭和18年(1943)10月、組織学教室の森田斉次教授退職に伴い、林礼教授が組織学教室の主任となり、同年11月、新井正治助教授が解剖学教室の主任に昇任した。
昭和19年(1944)11月、林礼教授は病気療養のため退職した。その後、昭和21年(1946)6月までは解剖学教室の中村為男教授が、昭和30年(1955)9月までは新井正治教授が組織学教室主任を兼務した。
昭和30年(1955)10月、吉村不二夫が組織学教室の主任教授に就任した。
昭和34年(1959)3月、第64回日本解剖学会が新井正治会頭の下、東京慈恵会医科大学にて開催された。
昭和39年(1964)4月、解剖学教室の新井正治教授退職に伴い、森田茂助教授が教授に昇任した。同時に、解剖学教室は第1解剖学教室、組織学教室は第2解剖学教室と改称された。
昭和40年(1965)3月、徳留三俊が新設の第3解剖学教室の主任教授に就任した。第1解割学教室と共に肉眼解割学の講義及び実習を担当した。
昭和55年(1980)4月、森田茂教授の退職により、徳留三俊教授が第1解割学教室の主任教授となり、第3解割学教室主任教授を兼務した。
昭和57年(1983)4月、吉村不二夫教授が日本解剖学会の第26代理事長に就任した。
昭和60年(1985)4月、第1解剖学教室の徳留三俊教授退職に伴い、山下廣が主任教授に就任した。第2解剖学教室の吉村不二夫教授の退職に伴い、石川博が主任教授に昇任した。
昭和61年(1986)4月、第1解剖学教室と第3解剖学教室は統合され、第1解剖学教室と第2解剖学教室の2教室体制となった。教育面では、それぞれ肉眼解剖学、組織学・発生学を担当した。
平成7年(1995)4月、解剖学講座第1、解剖学講座第2にそれぞれ改称された。
平成14年(2002)3月、解剖学講座第1の山下廣教授退職に伴い、同年6月、河合良訓が講座担当教授に就任した。
平成19年(2007)3月、解剖学講座第2の石川博教授の退職に伴い、同年4月、岡部正隆が講座担当教授に就任した。同時に、2つの解剖学講座は統合され、1講座に講座担当教授2名を置く大講座体制となり、河合良訓教授が総括者となった。主に担当する教育分野に因み、便宜的に旧解剖学講座第1を解剖学講座(肉眼・神経)、旧解剖学講座第2を解剖学講座(組織・発生)の名称が使われた。
令和2年(2020)9月、河合良訓教授が退職し、以降、岡部正隆教授が解剖学講座(肉眼・神経)を兼務し、現在に至る。
令和3年(2021)4月、久保健一郎が教授に就任し、神経解剖学の教育を担当した。
令和7年(2025)4月、久保健一郎が講座担当教授に就任し、1講座2講座担当教授の体制に戻った。岡部正隆が統括責任者となった。大講座に形態科学分野と神経科学分野を設置し、それぞれを岡部正隆と久保健一郎が担当する